二条城は京都に残る代表的な城郭で、豊かな歴史と建築が見どころです。この記事では築城年や関係者、主要建造物の成立時期、改修の経緯などを年代ごとに整理して分かりやすく解説します。観光前の基礎知識や学び直しにも役立つ内容ですので、二条城の成り立ちを短く振り返りながらお読みください。
二条城はいつ建てられたのか すぐにわかる築城年と背景

二条城の現在の基礎は慶長期(1600年代初頭)に築かれたもので、徳川家康が京都に権威を示す目的で整備しました。元々は室町時代から「二条御所」として公家や将軍の拠点があった場所で、何度か改変を経て今日の縄張りになっています。
築城は慶長8年(1603年)頃から本格化し、二の丸・本丸・櫓や門などが順次整備されました。江戸時代を通じて将軍や大名の行事・宿泊施設として使われ、その後も何度か改修が行われています。近代には一部焼失や取り壊しもありましたが、保存・復元が進められてきました。
二条城は政治的な意義と美術的価値を兼ね備えており、庭園や障壁画などから当時の文化水準もうかがえます。訪れる際は各時期の変遷を意識すると、建物と史実がより身近に感じられます。
主要な築城年の一覧
以下に主要な年と出来事を簡潔にまとめます。
- 室町時代:二条に公家・将軍の屋敷が存在。
- 慶長8年(1603年)頃:徳川家康による築城着手。
- 慶長15年(1610年)前後:二の丸御殿など整備の進行。
- 元和年間・寛永年間(1615–1640年代):補修や増築が断続。
- 江戸中期〜後期:定期的な改修・屏風や障壁画の補修。
- 明治期:一部建物の変化、用途の移行。
- 20世紀:保存・修復事業開始。
- 1994年:世界遺産暫定登録の流れの一部(1994年以降の保存活動)。
(上記は代表年で、細かな年次は後節で詳述します)
最初に築いたのはどの人物か
現在の城郭として整備した最初の中心人物は徳川家康です。家康は関ヶ原の戦い後、江戸幕府樹立に向けて京の支配と対抗勢力への抑止を図るため、慶長期に二条の地を堅固な城郭として再構築しました。
ただし、二条の地自体はそれ以前から公家屋敷や将軍の御所が置かれていました。室町幕府時代には将軍の居所として利用され、戦国期には変転がありました。つまり家康は既存の「二条御所」の伝統を受け継ぎつつ、新たな権力の象徴となる近世城郭へと作り替えた人物といえます。
このように「築いた人物」は家康が中心ですが、実際の工事や細部の設計・施工には多くの大名や職人が関与しました。以降の将軍や大名も補修や追加工事を行い、城の姿は段階的に完成していきました。
現在の城が形になった時期
二条城の現在の主要構成がほぼ整ったのは、慶長期から元和・寛永にかけての時期です。特に二の丸御殿などの主要建物は17世紀前半には完成し、江戸時代を通じて基本形が維持されました。
その後、江戸時代中期・後期に小規模な増改築や修繕が行われたことで装飾や機能が補強され、今日見られる建築的特徴が固定化しました。明治以降に失われた建物や昭和期以降の復元もありますが、主要な御殿群や堀、石垣の配置は慶長期の縄張りを基盤としています。
したがって「現在の城の形」は慶長期の築城が基礎となり、その後の数世紀にわたる手入れと部分的再建で今の姿に至ったと理解できます。
その後に行われた主な改修年
二条城では江戸時代を通じて複数回の改修が行われています。代表的な年としては、寛永期(1620年代〜1640年代)に行われた修繕、元禄・宝永期に行われた屋根や内部の補修が挙げられます。これらは老朽化や火災の被害に対応するためのものが中心です。
また、江戸後期には保存のための修理や装飾の補修が行われ、幕末の動乱期にも用途に合わせた改変がありました。明治以降は一時取り壊しや用途変更があり、20世紀に入ってから保存・復元事業が本格化します。昭和期〜平成期の修復で二の丸御殿の大規模な保存修理が実施され、文化財としての基盤が整えられました。
具体的な年次は複数の公文書や調査報告に記載されていますが、ここでは代表的な改修の流れを押さえておくと見学時の理解が深まります。
現地で分かる築造の手がかり
二条城を現地で見学すると、築造年代や改修の手がかりが随所に残っています。石垣の積み方や堀の形状、門や櫓の形式は時代を示す重要な手がかりです。特に石組みの技術や門構えは近世初期の様式をよく残しています。
建物内部では障壁画や天井、欄間などの意匠が制作年代の手がかりになります。修復で新旧の材が混在する箇所や継ぎ手の跡も工事の履歴を示します。敷地内の案内板や展示資料には各建物の造営年や改修の概要が記載されていることが多く、見学前にチェックすると理解が深まります。
キーワードとなる点は、縄張りの整合性、石垣や門の様式、内部装飾の制作期です。これらを組み合わせて見ると、二条城の成り立ちを現場で感じ取ることができます。
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二条城を誰がいつ造ったのか 時代と関係者を読む

二条城は徳川家康を中心に慶長期に本格整備されましたが、城づくりには多くの大名と職人が関わっています。政治的背景として、家康は京の監視と将軍権威の示威を目的とし、二条城をその象徴としました。
当初は家康の命で城郭が築かれ、後に歴代将軍や幕府の管理下で維持されました。城の工事は幕府直轄と各大名の負担で進められ、職人集団や宮大工・石工が動員されました。以後の将軍たちも改修や増築を行い、城の姿は時代ごとに少しずつ変わっていきました。
戦国期や室町期の遺構を受け継ぎつつ江戸期の城郭へと変貌した二条城は、関係者と時代背景を知ることで、その構造や装飾の意味がより明確になります。
徳川家康が築城した目的
徳川家康が二条城を築いた主な目的は、京都における将軍権威の確立と幕府の統制力の誇示です。京都は朝廷の所在地であり、そこに信頼できる拠点を置くことは政治的に重要でした。
また、家康は大名の監視や幕府儀礼の場として二条城を利用しました。将軍が上洛する際の宿泊施設や接遇の場としても整備し、幕府と朝廷との関係調整にも役立てられました。外交や国内政務の象徴的な施設としての役割を担った点が、家康の築城目的の核心です。
このように政治的・儀礼的な理由が中心で、単なる防御施設というよりは権力表現の場としての側面が強かったといえます。
家康が工事に着手した年
徳川家康が二条城の本格的な工事に着手したのは慶長期、概ね慶長8年(1603年)前後とされています。関ヶ原の戦い(1600年)後、政権基盤を固めた家康は京都の拠点整備を進め、二条城はその一環として築かれました。
工事は数年にわたって行われ、二の丸御殿など主要な建物は17世紀前半に整備されました。正確な着工年や各建物の着工時期は公的文書や修築記録に基づくため、詳細は記録により多少の差異がありますが、慶長期が起点である点は定説です。
築城に携わった職人や大工
二条城の築城・改修には多様な職能が動員されました。主に次のような職人が携わっています。
- 宮大工:御殿や門の木造建築を担当。木組みや屋根の施工を行いました。
- 石工:石垣や基礎部分の施工。石の選定や積み方が見どころです。
- 漆工・金具師:建具や装飾の金物、塗装を担当。
- 絵師・画工:障壁画や襖絵など内部装飾を制作。
- 庭師:庭園の設計・造成を担当。
これらの職人は当時の技術と様式を反映しており、それぞれの痕跡が現地で観察できます。大名や幕府が資金と人材を提供して工事を進めたため、高度な技術が結集しました。
後の将軍による補修と増築の年
二条城は歴代の将軍や幕府の意向で補修や増築が繰り返されました。初期の慶長期以降、寛永期や元禄期にかけて屋根の葺替えや内部の修理が行われ、幕末にかけても用途に応じた改変がありました。
具体的には、江戸時代を通じた定期的な修復・美装の実施や、火災や老朽化に対応するための改築が断続的に行われました。各将軍の時代により修理の規模や意匠の変更があり、それが建物の多様な様相を生んでいます。
豊臣や足利時代との関わり
二条の地は室町時代(足利幕府)から重要な屋敷地として利用され、将軍の御所や公家屋敷が置かれていました。豊臣政権下でも京の支配構造の中で二条の位置は注目され、戦国期の変転を経て家康が整備した経緯があります。
言い換えれば、二条城は足利・豊臣・徳川といった各時代の政治的流れの中で変化してきた場所であり、単一時代の遺構というよりは重層的な歴史を重ねた拠点です。そのため、城内の史料や構造には複数時代の影響が見られます。
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二条城の建築過程と主な建物が整った頃

二条城は段階的に建築が進み、御殿や門、櫓、庭園といった主要構成が17世紀前半には整っていきました。各建物は役割や儀礼に合わせて細かく設計されており、内部装飾や庭の意匠も同時期に制作されました。
建築過程は複数の工期に分かれ、初期築城から江戸期の補修、さらに近代の復元という流れで現在の形になっています。以下では主要建物ごとの成立年代や変遷を見ていきます。
二の丸御殿が造られた年
二の丸御殿は慶長期から元和・寛永にかけて整備されたとされ、概ね17世紀前半に完成していました。二の丸御殿は将軍の上洛時の宿泊や儀礼に使われる重要な建物で、広大な畳敷きの大広間や書院造りの部屋が連なります。
内部の障壁画や欄間の装飾もこの時期に制作された部分が多く、絵師や工匠の手による豪華な仕上がりが特徴です。以後も幾度か修理や部分的な作り替えが行われましたが、基本的な配置や機能は慶長期の整備が基礎となっています。
本丸御殿の成立と変遷
本丸御殿は城の中枢として位置づけられ、築城当初から存在しましたが、二の丸ほどの規模的派手さはありませんでした。主に政務や儀式の場として利用され、時代に応じて補修や間取り変更が行われています。
江戸期を通じて本丸の機能は変わらず維持され、幕末期の動乱で用途が一部変化したこともあります。明治以降の一時的な取り扱い変化や、後の保存・復元作業で形態が整えられています。
天守の有無とその経緯
二条城には現在天守は存在しません。歴史資料によれば、二条城に恒常的な大型天守が築かれていた確証は乏しく、少なくとも現在の縄張りでは大規模な天守は設けられていなかった可能性が高いです。
一方で、江戸期の城の多くが天守をもたない例もあり、二条城はむしろ御殿群や防御施設、門・櫓の組合せで城を構成していました。これも二条城が儀礼的な性格を強く持っていたことの表れと解釈できます。
東大手門や隅櫓が建てられた時期
東大手門や各隅櫓(すみやぐら)などの門櫓群は慶長期以降の築城過程で整備されました。門構えや櫓の様式は近世初期の城郭技術を示しており、往時の堅牢さと格式を意識した造りです。
これらの施設は防御機能と同時に儀礼や威圧の意味合いを持って設計され、以降の修理で様式的な改変が入ることがありましたが、基本的な位置と形式は17世紀に定まったと考えられます。
庭園の造営と年代
二条城の庭園は近世初期に主要部分が造成され、その後の補修や手入れで現在の姿に近づきました。庭園は池泉回遊式や枯山水の要素を取り入れ、御殿と連動した景観設計がなされています。
制作年代は御殿と同時期の17世紀前半が基盤で、江戸時代を通じて植え替えや石組みの修整が行われてきました。庭園は城の儀礼空間として重要で、季節ごとの景観変化も見どころです。
障壁画や内装の制作年代
二の丸御殿などの障壁画や襖絵は慶長期から江戸初期にかけて制作された作品が多く残っています。多くは狩野派など当時の著名な絵師や門人によるもので、制作年代は17世紀前半が中心です。
その後の修復や部分的な描き替えがあるものの、原画の多くは江戸初期の制作に由来します。内装の意匠や金箔、彫刻なども同時期の技術を反映しており、文化史的な価値が高い部分です。
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年表でたどる二条城の建設と重要な出来事

以下の年表で、二条城の主要な建設・改修・歴史的出来事を時系列で触れていきます。細かな年次は史料により異なる場合がありますが、概略を把握するのに役立ちます。
室町時代にあった二条の御所の記録
室町時代の記録には、二条付近に将軍や有力公家の屋敷が存在したことが確認できます。当時は「二条御所」として政治や儀礼の舞台になっており、現在の二条城の前史にあたる重要な拠点でした。
政治的には足利将軍家が京都での権威を示すための拠点として利用し、建物や庭園の原型が形成されていきました。
戦国時代の変遷と旧跡
戦国時代には京都周辺も戦乱や勢力争いの影響を受け、二条の屋敷や施設も変転しました。この時期に大規模な城郭化は進まず、むしろ拠点の移転や一時的な占拠が繰り返された記録が残ります。
この変遷を経て、関ヶ原以降に徳川政権が二条を近世城郭として整備する土台が築かれました。
慶長期の築城と具体的な年
慶長期、特に慶長8年(1603年)前後に徳川家康が二条城の本格的整備を指示し、二の丸や本丸、門・櫓の築造が進みました。以降数年をかけて主要建物が完成し、京都における幕府の象徴施設として機能し始めます。
この時期の工事は複数の大名や職人を動員して行われ、近世城郭としての基礎が築かれました。
江戸時代の改修や行事の年
江戸期には定期的な修理や改修が行われ、各将軍の上洛時に行われる儀礼や行事のための整備も実施されました。寛永期や元禄期などの時代に主要な補修記録が残り、城の維持管理が継続しました。
行事面では将軍上洛や朝廷との儀礼に使用され、政治的・社交的な場としての役割が強調されました。
幕末の出来事と城の役割
幕末期には政情不安の中で二条城も重要な舞台となりました。特に大政奉還(1867年)に関する出来事は歴史的な転換点であり、城内で重要な会合や決定が行われました。
この時期の動きにより、二条城は幕末史の現場の一つとして注目されています。
近代以降の保存と世界遺産化の流れ
明治以降は用途の変化や一部建物の消失がありましたが、20世紀に入ってから保存運動と修復事業が本格化しました。昭和・平成の修復で多くの建築が保存され、文化財としての価値が高まりました。
その後、世界遺産登録に向けた取り組みや学術調査が進み、国際的にも評価される歴史遺産となりました。現在は公開・保存が両立された形で保存管理が続けられています。
二条城の築城年を短く振り返る
二条城の主要な築城は慶長期、特に1600年代初頭に徳川家康によって始まりましたが、その地は室町時代からの歴史を受け継いでいます。以後、江戸時代を通じた補修や増築、幕末の歴史的事件、近代以降の保存活動を経て、現在の姿に至っています。
二条城を訪れる際は、慶長期の築城とその後の改修・保存の流れを念頭に置くと、建物や庭園、障壁画などの意味がより深く理解できるでしょう。
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